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これをよそに思うを、衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり。これを我が身の上と知りぬるを、如来とも覚りとも聖人とも智者とも云うなり。こう解り、明らかに観ずれば、この身頓て今生の中に本覚の如来を顕して、即身成仏とはいわるるなり。譬えば、春夏、田を作りうえつれば、秋冬は蔵に収めて心のままに用いるがごとし。春より秋をまつほどは久しきようなれども、一年の内に待ち得るがごとく、この覚りに入って仏を顕すほどは久しきようなれども、一生の内に顕して我が身が三身即一の仏となりぬるなり。
この道に入りぬる人にも上中下の三根はあれども、同じく一生の内に顕すなり。上根の人は、聞くところにて覚りを極めて顕す。中根の人は、もしは一日、もしは一月、もしは一年に顕すなり。下根の人は、のびゆく所なくてつまりぬれば、一生の内に限りたることなれば、臨終の時に至って、諸のみえつる夢も覚めてうつつになりぬるがごとく、只今までみつるところの生死妄想の邪思い、ひがめの理はあと形もなくなりて、本覚のうつつの覚りにかえりて法界をみれば、皆寂光の極楽にて、日来賤しと思いし我がこの身が、三身即一の本覚の如来にてあるべきなり。秋のいねには早と中と晩との三つのいね有れども、一年が内に収むるがごとく、これも上中下の差別ある人なれども、同じく一生の内に諸仏如来と一体不二に思い合わせてあるべきことなり。
「妙法蓮華経の体のいみじくおわしますは、いかようなる体にておわしますぞ」と尋ね出だしてみれば、我が心性の八葉の白蓮華にてありけることなり。されば、我が身の体性を妙法蓮華経とは申しけることなれば、経の名にてはあらずして、はや我が身の体にてありけると知りぬれば、我が身頓て
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(019)十如是事 | 正嘉2年(’58) | 37歳 |