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本を捨てて末を尋ね、体を離れて影を求め、源を忘れて流れを貴ぶ。分明なる経文を閣いて、論釈を請い尋ぬ。本経に相違する末釈有らば、本経を捨てて末釈に付くべきか。
しかりといえども、好みに随ってこれを示さん。文句の九に云わく「初心は縁に紛動せられて正業を修するを妨げんことを畏る。直ちに専らこの経を持つは、即ち上供養なり。事を廃して理を存するは、益するところ弘多なり」。この釈に「縁」と云うは、五度なり。初心の者兼ねて五度を行ずれば、正業の信を妨ぐるなり。譬えば、小船に財を積んで海を渡るに、財とともに没するがごとし。「直ちに専らこの経を持つ」と云うは、一経に亘るにあらず。専ら題目を持って余文を雑えず。なお一経の読誦をも許さず。いかにいわんや五度をや。「事を廃して理を存す」と云うは、戒等の事を捨てて、題目の理を専らにす云々。「益するところ弘多なり」とは、初心の者、諸行と題目とを並び行ずれば、益するところ全く失う云々。
文句に云わく「問う。もししからば、経を持つは即ちこれ第一義戒なり。何が故ぞまた能く戒を持つ者と言うや。答う。これは初品を明かす。応に後をもって難を作すべからず」等云々。当世の学者、この釈を見ずして、末代の愚人をもって南岳・天台の二聖に同ず。誤りの中の誤りなり。
妙楽重ねてこれを明かして云わく「『問う。もししからば』とは、もし事の塔および色身の骨を須いずんば、また応に事の戒を持つことを須いず、乃至事の僧を供養することを須いざるべしやとなり」等云々。伝教大師云わく「二百五十戒たちまちに捨て畢わんぬ」。ただ教大師一人のみに限るにあらず、鑑真の弟子の如宝・道忠ならびに七大寺等一同に捨て了わんぬ。また、教大師、未来を
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(012)四信五品抄 | 建治3年(’77)4月10日 | 56歳 | 富木常忍 |