たまたま仏になる人も候らん。今の天台の座主、東寺、御室、七大寺の検校、園城寺の長吏等の真言師、ならびに禅宗・念仏者・律僧等は、眼前には法華経を信じよむににたれども、その根本をたずぬれば、弘法大師・慈覚大師・智証大師・善導・法然等が弟子なり。源にごりぬれば流れきよからず、天くもれば地くらし。父母謀反をおこせば妻子ほろぶ。山くずるれば草木たおるならいなれば、日本六十六箇国等の比丘・比丘尼等の善人等、皆無間地獄に堕つべきなり。されば、今の代に地獄に堕つるものは、悪人よりも善人、善人よりも僧尼等、僧尼よりも持戒にて智慧かしこき人々の阿鼻地獄へは堕ち候なり。
この法門は、当世日本国に一人もしりて候人なし。ただ日蓮一人ばかりにて候えば、これを知って申さずば、日蓮、無間地獄に堕ちてうかぶごなかるべし。譬えば、むほんのものをしりながら国主へ申さぬとがあり。申せば、かたき雨のごとし、風のごとし、むほんのもののごとし、海賊・山賊のもののごとし。かたがたしのびがたきことなり。例せば、威音王仏の末の不軽菩薩のごとし。歓喜仏のすえの覚徳比丘のごとし、天台のごとし、伝教のごとし。また、かの人々よりもかたきすぎたり。かの人々は、諸人ににくまれたりしかども、いまだ国主にはあだまれず。これは、諸人よりは国主にあだまるること、父母のかたきよりもすぎたりとみよ。
かかるふしぎの者をふびんとて御くようの候は、日蓮が過去の父母か、また先世の宿習か。おぼろけのことにはあらじ。その上、雨ふり、かぜふき、人のせいするにこそ、心ざしはあらわれ候え。これもまたかくのごとし。ただなる時だにも、するがとかいとのさかいは、山たかく、河はふかく、石おおく、みちせばし。いおうや、とうじはあめはしのをたてて三月におよび、かわはまさりて九十
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(318)種々物御消息 | 弘安元年(’78)7月7日 | 57歳 | (南条平七郎) |