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れ一〉。六波羅蜜経に云わく「過去・現在ならびに釈迦牟尼仏の説くところの諸経を分かちて五蔵となし、その中の第五の陀羅尼蔵は真言なり」。真言の経は釈迦如来の所説にあらずといわば、経文に違す〈これ二〉。「我が説くところの経典」等の文は、釈迦如来の正直捨方便の説なり。大日如来の証明、分身の諸仏広長舌相の経文なり〈これ三〉。五仏章ことごとく、諸仏皆法華経を第一なりと説き給う〈これ四〉。「要をもってこれを言わば、如来の一切の所有の法乃至皆この経において宣示顕説す」等云々。この経文のごとくんば、法華経は釈迦の説くところの諸経の第一なるのみにあらず、大日如来・十方無量諸仏の諸経の中に法華経第一なり。この外、一仏二仏の説くところの諸経の中に、法華経に勝れたるの経これ有りと云わば、信用すべからず〈これ五〉。大日経等の諸の真言経の中に、法華経に勝れたる由の経文これ無し〈これ六〉。仏より外の天竺・震旦・日本国の論師・人師の中に、天台大師より外の人師の所釈の中に、一念三千の名目これ無し。もし一念三千を立てざれば、性悪の義これ無し。性悪の義これ無くんば、仏菩薩の普現色身、不動・愛染等の降伏の形、十界の曼荼羅、三十七尊等、本無今有の外道の法に同じきか〈これ七〉。
問うて云わく、七義の中に一々の難勢これ有り。しかりといえども、六義はしばらくこれを置く。第七の義、いかん。華厳の澄観、真言の一行等、皆、性悪の義を存す。何ぞ諸宗にこの義無しと云うや。
答えて云わく、華厳の澄観、真言の一行は、天台の立つるところの義を盗んで自宗の義と成すか。このこと余処に勘えたるがごとし。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(054)法華真言勝劣事 | 文永元年(’64)7月29日 | 43歳 |