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文を取って、この二句の中間に置いて天台宗と名づけ、華厳宗に劣るの由、これを存す。住心品においては、全く文義共にこれ無し。有文有義・無文有義の二句を虧く。信用に及ばず。
菩提心論の文においても、法華・華厳の勝劣すべてこれを見ざる上、この論は竜猛菩薩の論ということ、上古より諍論これ有り。この諍論絶えざる已前に亀鏡に立つることは、竪義の法に背く。
その上、善無畏・金剛智等、評定有って大日経の疏・義釈を作れり。一行阿闍梨の執筆なり。この疏・義釈の中に諸宗の勝劣を判ずるに、法華経と大日経とは広略の異なりと定め畢わんぬ。空海の徳貴しといえども、いかでか先師の義に背くべきやという難、これ強し〈これ安然の難なり〉。これによって、空海の門人これを陳ずるに、かたがた陳答これ有り。あるいは守護経、あるいは六波羅蜜経、あるいは楞伽経、あるいは金剛頂経等に見ゆと多く会通すれども、総じて難勢を免れず。しかりといえども、東寺の末学等、大師の高徳を恐るるのあいだ、あながちに会通を加えんとすれども、結句、会通の術計これ無く、問答の法に背いて「伝教大師最澄は弘法大師の弟子なり」云々、また「宗論の甲乙等、かたがた論ずることこれ有り」云々。
日蓮案じて云わく、華厳宗の杜順・智儼・法蔵等、法華経の「始見・今見」の文に就いて、「法華と華厳と斉等なり」の義これを存す。その後、澄観、「始・今」の文に依って斉等の義を存すること、祖師に違せず。その上、一往の弁を加えて、「法華と華厳と斉等なり。ただし、華厳は法華経より先なり。華厳経の時、仏、最初に法慧・功徳林等の大菩薩に対して、出世の本懐これを遂ぐ。しかれども、二乗ならびに下賤の凡夫等は、根機未熟の故にこれを用いず。阿含・方等・般若等の調熟によっ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(054)法華真言勝劣事 | 文永元年(’64)7月29日 | 43歳 |