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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

体不思議の円実を振りたることなきなり。しかれば、体外の影の三乗を体内の本の権の本体へ開会し入るれば、本の体内の権と云われて、全く体内の円とは成らざるなり。この心をもって体内・体外の権実の法門をば意得弁うべきものなり。
 次に禅宗の法門は、あるいは「教外に別伝し、文字を立てず」と云い、あるいは「仏祖も伝えず」と云い、「修多羅の教えは月をさす指のごとし」とも云い、あるいは「即身即仏」とも云って、文字をも立てず、仏祖にも依らず、教法をも修学せず、画像・木像をも信用せずと云うなり。
 反詰して云わく、「仏祖不伝にて候わば、何ぞ、月氏の二十八祖、東土の六祖とて相伝せられ候か。その上、迦葉尊者は、何ぞ一枝の花房を釈尊より授けられ微笑して心の一法を霊山にして伝えたりとは自称するや。また祖師無用ならば、何ぞ達磨大師を本尊とするや。また修多羅の法無用ならば、何ぞ朝夕の所作に真言陀羅尼をよみつるぞや。首楞厳経・金剛経・円覚経等を、あるいは談じ、あるいは読誦するや。また仏菩薩を信用せずんば、何ぞ『南無三宝』と行住坐臥に唱うるや」と責むべきなり。
 次に、聞き知らざる言をもって種々申し狂わば、云うべし。「およそ機には上・中・下の三根あり。したがって、法門も三根に与えて説くことなり。禅宗の法門にも、理致・機関・向上とて、三根に配して法門を示され候なり。御辺は、某が機をば三根の中にはいずれと意得て、聞き知らざる法門を仰せられ候ぞや。また、理致の分か、機関の分か、向上の分に候か」と責むべきなり。
 「理致」というは、下根に道理を云いきかせて禅の法門を知らする名目なり。「機関」とは、中根に