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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

円に著するすらなお悪なり、いわんやまた余の法をやという文なり。「円」と云うは満足の義なり。「余」と云うは闕減の義なり。円教の十界平等に成仏する法をすら、著したる方を悪ぞと嫌う。いわんやまた、十界平等に成仏せざるの悪法の闕けたるをもって執著をなして、朝夕、受持・読・誦・解説・書写せんをや。たとい爾前の円を今の法華に開会し入るるとも、爾前の円は法華と一味となることなし。法華の体内に開会し入れられても、体内の権と云われて実とは云わざるなり。体内の権を体外に取り出だして、しばらく於一仏乗分別説三する時、権において円の名を付けて、三乗の中の円教と云われたるなり。
 これによって、古も金杖の譬えをもって三乗にあてて沙汰することあり。「譬えば、金の杖を三つに打ち折って、一つずつ三乗の機根に与えて、いずれも皆金なり、しかれば、何ぞ同じ金において、差別の思いを成して勝劣を判ぜんや」と談合したり。これは、うち聞くところはさもやと覚えたれども、悪しく学者の心得たるなり。
 今云うこの義は、譬えば、法華の体内の権の金杖を、仏三根に宛てて体外に三度うちふり給えるその影を、機根が見付けずして、皆真実の思いを成して、己が見に任せたるなり。その真実には、金杖を打ち折って三つになしたることがあらばこそ、今の譬えは合譬とは成らめ。仏は権の金杖を折らずして三度ふり給えるを、機根ありて三つに成りたりと執著し心得たるは、返す返す心得ざるの大邪見なり、大邪見なり。
 三度振りたるも、法華の体内の権の功徳を体外の三根に配して三度振りたるにてこそあれ、全く妙