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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

にてありけり。嫌わるる諸流も、用いらるる冷水も、源はただ大海より出でたる一水にてありけり。しかれば、いずれの水と呼びたりとても、ただ大海の一水において別々の名言をよびたるにてこそあれ。各別各別の物と思ってよぶにこそ科はあれ、ただ大海の一水と思って、いずれをも心に任せて有縁に従って唱え持つに苦しかるべからず」とて、念仏をも真言をも、いずれをも心に任せて持ち唱うるなり。
 今云うこの義は、与えて云う時はさもあるべきかと覚ゆれども、奪って云う時は随分の堕地獄の義にてあるなり。その故は、たとい一人かくのごとく意得、いずれをも持ち唱うるとても、万人この心根を得ざる時は、ただ例の偏見・偏情にて持ち唱うれば、一人成仏するとも、万人は皆地獄に堕つべき邪見の悪義なり。爾前に立つるところの法門の名言と、その法門の内に談ずるところの道理の所詮とは、皆これ偏見・偏情によりて、「邪見の稠林、もしは有、もしは無等に入る」の権教なり。しかれば、これらの名言をもって持ち唱え、これらの所詮の理を観ずれば、ひとえに、心得たるも心得ざるも皆、大地獄に堕つべし。心得たりとて唱え持ちたらん者は、牛蹄に大海を納めたる者のごとし。これ僻見の者なり。何ぞ三悪道を免れん。また心得ざる者の唱え持たんは、本迷惑の者なれば、邪見・権教の執心によって無間大城に入らんこと疑いなきものなり。開会の後も、麤教とて嫌い捨てし悪法をば、名言をも、その所詮の極理をも、唱え持って交ゆべからずと見えて候。
 弘決に云わく「相待・絶待ともにすべからく悪を離るべし。円に著するすら、なお悪なり。いわんやまた余をや」云々。文の心は、相待妙の時も絶待妙の時も、ともにすべからく悪法をば離るべし、