SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

別・円の後三教を説いて候えば、それも円の方は仏慧なり。しかりといえども、華厳は別教と申すえせ物をつれて説かれたるあいだ、わるき物つれたる仏慧なりとて簡わるるなり。方等部の円も前三教のえせ物をつれたる仏慧なり。般若部の円も前二麤のえせ物をつれたる仏慧なり。しかるあいだ、仏慧の名は同じといえども、過ちの辺によって麤と云われて、わるき円教の仏慧と下され候なり。
 これによって、四教にても真実の勝劣を判ずる時は、「一往は三蔵を名づけて小乗となし、再往は三教を名づけて小乗となす」と釈して、一往の時は、二百五十戒等の阿含三蔵教の法門を総じて小乗の法と簡い捨てらるれども、再往の釈の時は、三蔵教と大乗と云いつる通教と別教との三教は皆小乗の法と、本朝の智証大師も法華論の記と申す文を作って判釈せられて候なり。
 次に絶待妙と申すは、開会の法門にて候なり。この時は、爾前権教とて嫌い捨てらるるところの教えを、皆、法華の大海におさめ入るるなり。したがって、法華の大海に入りぬれば、爾前の権教とて嫌わるるもの無きなり。皆、法華の大海の不可思議の徳として、南無妙法蓮華経という一味にたたきなしつるあいだ、念仏・戒・真言・禅とて、別の名言を呼び出だすべき道理かつて無きなり。したがって、釈に云わく「諸水、海に入っては、一鹹味に同ず。諸智、如実智に入っては、本の名字を失う」等と釈して、本の名字を一言も呼び顕すべからずと釈せられて候なり。
 世間の人、「天台宗は、開会の後は、相待妙の時斥い捨てられしところの前四味の諸経の名言を唱うるも、また諸仏・諸菩薩の名言を唱うるも、皆これ法華の妙体にてあるなり。大海に入らざるほどこそ、各別の思いなりけれ。大海に入って後に見れば、日来よしわるしと嫌い用いけるは、大僻見