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心を殺すということにて候。その上『もし余経を弘むるには、教相を明かさざれども、義において傷うことなし。もし法華を弘むるには、教相を明かさずんば、文義闕くることあり』と釈せられて、ことさら教相を本として天台の法門は建立せられ候。仰せられ候ごとく次第もなく偏円をも簡ばず邪正も選ばず法門申さん者をば信受せざれと天台堅く誡められ候なり。これ程に知ろしめさず候いけるに、中々天台の御釈を引かれ候こと、浅ましき御事なり」と責むべきなり。
ただし、天台の教相を三種に立てらるる中に、根性の融・不融の相の下にて、相待妙・絶待妙とて二妙を立て候。相待妙の下にて、また約教・約部の法門を釈して仏教の勝劣を判ぜられて候。
約教の時は、一代の教を蔵・通・別・円の四教に分かちて、これについて勝劣を判ずる時は、「前の三つを麤となし、後の一つを妙となす」とは判ぜられて、蔵・通・別の三教をば麤教と嫌い、後の一教をば妙法と選び取られ候えども、この時もなお爾前権教の当分の得道を許し、しばらく華厳等の仏慧と法華の仏慧とを等しからしめて、只今の「初後の仏慧、円頓の義は斉し」等の与の釈を作られ候なり。
しかりといえども、約部の時は、一代の教を五時に分かちて五味に配し、華厳部・阿含部・方等部・般若部・法華部と立てられ、「前の四味を麤となし、後の一つを妙となす」と判じて、奪の釈を作られ候なり。しかれば、奪の釈に云わく「細人・麤人、二りともに過ちを犯す。過ちの辺より説いて、ともに麤人と名づく」。この釈の意は、華厳部にも別・円二教を説かれて候えば、円の方は仏慧と云わるるなり。方等部にも蔵・通・別・円の四教を説かれたれば、円の方はまた仏慧なり。般若部にも通・
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(053)諸宗問答抄 | 建長7年(’55) | 34歳 |