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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

なり。その後、秦の代ほどなくほろび候いぬ。これもまたかくのごとし。安芸国いつく島大明神は平家の氏神なり。平家をおごらせし失に、伊勢大神宮・八幡等に神うちに打ち失われて、その後平家ほどなくほろび候いぬ。これまたかくのごとし。
 法華経の第四に云わく「仏滅度して後に、能くその義を解せば、これ諸の天・人の世間の眼なり」等云々。日蓮が法華経の肝心たる題目を日本国に弘通し候は、諸天世間の眼にあらずや。眼には五つあり。いわゆる、肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり。この五眼は法華経より出生せさせ給う。故に、普賢経に云わく「この方等経は、これ諸仏の眼なり。諸仏はこれに因って五眼を具することを得たまえり」等云々。「この方等経」と申すは、法華経を申すなり。またこの経に云わく「人・天の福田、応供の中の最なり」等云々。これらの経文のごとくば、妙法蓮華経は、人・天の眼、二乗・菩薩の眼、諸仏の御眼なり。しかるに、法華経の行者を怨む人は、人・天の眼をくじる者なり。その人を罰せざる守護神は、一切の人・天の眼をくじる者を結構し給う神なり。
 しかるに、弘法・慈覚・智証等は正しく書を作るなり。法華経を「無明の辺域にして明の分位にあらず。後に望めば戯論と作る」「力者に及ばず。履きものとりにたらず」とかきつけて、四百余年、日本国の上一人より下万民にいたるまで、法華経をあなずらせ、一切衆生の眼をくじる者を守護し給うは、あに八幡大菩薩の結構にあらずや。去ぬる弘長と、また去ぬる文永八年九月の十二日に、日蓮一分の失なくして、南無妙法蓮華経と申す大科に、国主のはからいとして八幡大菩薩の御前にひきはらせて、一国の謗法の者どもにわらわせ給いしは、あに八幡大菩薩の大科にあらずや。そのいましめ