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御宝殿の傍らには、神宮寺と号して法華経等の一切経を講ずる堂、大師より已前にこれあり。その時定めて仏法を聴聞し給いぬらん。何ぞ今始めて「我は、法音を聞かずして久しく年歳を歴たり」等と託宣し給うべきや。いくばくの人々か法華経・一切経を講じ給いけるに、何ぞこの御袈裟・衣をば進らさせ給わざりけるやらん。
当に知るべし、伝教大師已前は、法華経の文字のみ読みけれども、その義はいまだ顕れざりけるか。去ぬる延暦二十年十一月の中旬の比、伝教大師、比叡山にして南都七大寺の六宗の碩徳十余人を奉請して法華経を講じ給いしに、広世・真綱等の二人の臣下、この法門を聴聞してなげいて云わく「一乗の権滞を慨み三諦の未顕を悲しむ」。また云わく「長幼は三有の結を摧破するも、なおいまだ歴劫の轍を改めず」等云々。その後、延暦二十一年正月十九日に高雄寺に主上行幸ならせ給いて、六宗の碩徳と伝教大師とを召し合わせられて宗の勝劣を聞こしめししに、南都の十四人皆口を閉じて鼻のごとくす。後に重ねて怠状を捧げたり。その状に云わく「聖徳の弘化より以降、今に二百余年の間、講ずるところの経論その数多し。彼此、理を争えども、その疑いいまだ解けず。しかもこの最妙の円宗なおいまだ闡揚せず」等云々。これをもって思うに、伝教大師已前には法華経の御心いまだ顕れざりけるか。八幡大菩薩の「見ず聞かず」と御託宣有りけるは、指すなり、指すなり。白らかなり、白らかなり。
法華経の第四に云わく「我滅度して後、能くひそかに一人のためにも、法華経を説かば、当に知るべし、この人は則ち如来の使いなり乃至如来は則ちために衣をもってこれを覆いたもう」等云々。当来の弥勒仏は法華経を説き給うべきゆえに、釈迦仏は大迦葉尊者を御使いとして衣を送り給う。また伝
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(050)諫暁八幡抄 | 弘安3年(’80)12月 | 59歳 |