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おとろえぬ衆生なれば、五味の中にいずれの味をもなめて威光勢力をもまし候いき。仏滅度して後、正像二千年過ぎて末法になりぬれば、本の天も神も阿修羅・大竜等も年もかさなりて、身もつかれ、心もよわくなり、また今生まれ来る天・人・修羅等は、あるいは小果報、あるいは悪天人等なり。小乗・権大乗等の乳・酪・生蘇・熟蘇味を服すれども、老人に麤食をあたえ、高人に麦飯等を奉るがごとし。しかるを、当世これを弁えざる学人等、古にならいて、日本国の一切の諸神等の御前にして、阿含経・方等・般若・華厳・大日経等を法楽し、俱舎・成実・律・法相・三論・華厳・浄土・禅等の僧を護持の僧とし給える、ただ老人に麤食を与え小児に強飯をくくめるがごとし。
いかにいわんや、今の小乗経と小乗宗と大乗経と大乗宗とは、古の小大乗の経・宗にはあらず。天竺より仏法漢土へわたりし時、小大の経々は金言に私言まじわれり。宗々は、また、天竺・漢土の論師・人師、あるいは小を大とあらそい、あるいは大を小という。あるいは小に大をかきまじえ、あるいは大に小を入れ、あるいは先の経を後とあらそい、あるいは後を先とし、あるいは先を後につけ、あるいは顕経を密経といい、密経を顕経という。譬えば、乳に水を入れ、薬に毒を加うるがごとし。
涅槃経に仏未来を記して云わく「その時、諸の賊、醍醐をもっての故に、これに加うるに水をもってす。水多きをもっての故に、乳・酪・醍醐、一切ともに失す」等云々。
阿含の小乗経は乳味のごとし。方等の大集経・阿弥陀経・深密経・楞伽経・大日経等は酪味のごとし。般若経等は生蘇味のごとく、華厳経等は熟蘇味のごとく、法華・涅槃経等は醍醐味のごとし。たとい小乗経の乳味なりとも、仏説のごとくならば、いかでか一分の薬とならざるべき。いわんや諸の
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(050)諫暁八幡抄 | 弘安3年(’80)12月 | 59歳 |