また寿量品の久遠実成が爾前の経々になきことをもって思うに、爾前には久遠実成なきのみならず、仏は天下第一の大妄語の人なるべし。爾前の大乗第一たる華厳経・大日経等に、「始めて正覚を成ず」「我は昔道場に坐す」等云々。「真実甚深」「正直に方便を捨つ」の無量義経と法華経の迹門には、「我は先に道場にして」「我は始め道場に坐す」と説かれたり。これらの経文は、寿量品の「しかるに、我は実に成仏してより已来、無量無辺なり」の文より思い見れば、あに大妄語にあらずや。
仏の一身、すでに大妄語の身なり。一身に備えたる六根の諸法、あに実なるべきや。大氷の上に造れる諸の舎は、春をむかえては破れざるべしや。水中の満月は、実に体ありや。爾前の成仏・往生等は、水中の星月のごとし。爾前の成仏・往生等は、体に随う影のごとし。本門寿量品をもって見れば、寿量品の智慧をはなれては、諸経は跨節・当分の得道共に有名無実なり。
天台大師、この法門を道場にして独り覚知し、玄義十巻・文句十巻・止観十巻等かきつけ給うに、諸経に二乗作仏・久遠実成絶えてなき由を書きおき給う。これは、南北の十師が教相に迷って三時・四時・五時、四宗・五宗・六宗、一音・半満・三教・四教等を立てて教えの浅深・勝劣に迷いし、これらの非義を破らんがために、まず眼前たる二乗作仏・久遠実成をもって諸経の勝劣を定め給いしなり。しかりといって、余界の得道をゆるすにはあらず。その後の、華厳宗の五教、法相宗の三時、真言宗の顕密・五蔵・十住心・義釈の四句等は、南三北七の十師の義よりもなお誤れる教相なり。
これらは他師のことなればさておきぬ。また、自宗の学者が、天台・妙楽・伝教大師の御釈に迷って「爾前の経々には二乗作仏・久遠実成ばかりこそ無けれども、余界の得道は有り」なんど申す人々、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(040)小乗大乗分別抄 | 文永10年(’73)* | (富木常忍) |