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しかるを、雨衆が三徳、米斉が六句の、先仏の教えを盗みとれるように、華厳宗の澄観、真言宗の善無畏等は、天台大師の一念三千の法門を盗み取って、我が依るところの経の「心、仏および衆生」の文の心とし、「心の実相」と申す文の神とせるなり。かくのごとく盗み取って我が宗の規模となせるが、また還って天台本宗をば下して、華厳・真言宗には劣れるなりと申す。これらの人師は、世間の盗人にはあらねども、法の盗人なるべし。これらをよくよく尋ね明らむべし。
また、世間の天台宗の学者ならびに諸宗の人々の云わく「法華経はただ二乗作仏・久遠実成ばかりなり」等云々。今反詰して云わく、汝等が承伏に付いて、ただ二乗作仏と久遠実成ばかり法華経にかぎって諸経になくば、これなりとも、あに奇が中の奇にあらずや。
二乗作仏、諸経になくば、仏の御弟子、頭陀第一の迦葉・智慧第一の舎利弗・神通第一の目連等の十大弟子、千二百の羅漢、万二千の声聞、無数億の二乗界、過去遠々劫より未来無数劫にいたるまで、法華経に値いたてまつらずば、永く色心ともに滅して永不成仏の者となるべし。あに大いなる失にあらずや。また二乗界仏にならずば、迦葉等を供養せし梵天・帝釈・四衆・八部・比丘・比丘尼等の二界八番の衆は、いかんがあるべき。また久遠実成がこの経に限らずんば、三世の諸仏、無常遷滅の法に堕しなん。譬えば、天に諸星ありとも、日月ましまさずんばいかんがせん。地に草木ありとも、大地なくばいかんがせん。これは汝が承伏についての義なり。
実をもって勘え申さば、二乗作仏なきならば、九界の衆生仏になるべからず。法華経の心は、法爾のことわりとして一切衆生に十界を具足せり。譬えば、人一人は必ず四大をもってつくれり。一大か
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(040)小乗大乗分別抄 | 文永10年(’73)* | (富木常忍) |