SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

ぞ横計をなすべけんや。文のごときは、地涌の菩薩の五十小劫の間如来を称揚するを、霊山迹化の衆は半日のごとく謂えりと説き給えるを、天台は、解者・惑者を出だして、「迹化の衆は惑者なるが故に半日と思えり。これ即ち僻見なり。地涌の菩薩は解者なるが故に五十小劫と見る。これ即ち正見なり」と釈し給えるなり。妙楽、これを受けて、「無明を破する菩薩は解者なり。いまだ無明を破せざる菩薩は惑者なり」と釈し給いしこと、文に在って分明なり。「迹化の菩薩なりとも、住上の菩薩はすでに無明を破する菩薩なり」と云わん学者は、無得道の諸経を有得道と習いし故なり。
 爾前・迹門の当分に妙覚の位有りといえども、本門寿量の真仏に望むる時は、「惑者」「なお賢位に居す」と云わるる者なり。権教の三身いまだ無常を免れざる故は、夢中の虚仏なるが故なり。
 爾前と迹化の衆とは、いまだ本門に至らざる時は未断惑の者と云われ、かしこに至る時正しく初住に叶うなり。妙楽、釈して云わく「迹を開き本を顕せば、皆初住に入る」文。「なお賢位に居す」の釈、これを思い合わすべし。爾前・迹化の衆は、惑者にして、いまだ無明を破せざる仏菩薩なりということ、真実なり、真実なり。
 故に知んぬ、本門寿量の説顕れての後は、霊山一会の衆、皆ことごとく当体蓮華を証得するなり。二乗・闡提・定性・女人等の悪人も、本仏の蓮華を証得するなり。伝教大師、一大事の蓮華を釈して云わく「法華の肝心、一大事の因縁は、蓮華の所顕なり。一とは一実相なり。大とは性広博なり。事とは法性の事なり。一究竟事は円の理・智・行、円の身・若・脱なり。一乗・三乗、定性・不定性、内道・外道、阿闡・阿顚、皆ことごとく一切智地に到る。この一大事、仏の知見を開・示・悟・入して一