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菩薩を現証となすことは、経文に「蓮華の水に在るがごとし」と云うが故なり。菩薩の当体と聞こえたり。竜女を証拠となすことは、「霊鷲山に詣でて、千葉の蓮華の大いさ車輪のごとくなるに坐す」と説きたもうが故なり。また妙音・観音の三十三・四身なり。これをば、解釈には「法華三昧の不思議自在の業を証得するにあらざるよりは、いずくんぞ能くこの三十三身を現ぜん」云々。あるいは「世間の相は常住なり」文。これらは皆、当世の学者の勘文なり。
しかりといえども、日蓮は方便品の文と神力品の「如来の一切の所有の法」等の文となり。この文をば、天台大師もこれを引いて今経の五重玄を釈せしなり。ことさらこの一文、正しき証文なり。
問う。次上に引くところの文証・現証殊勝なり。何ぞ神力の一文に執するや。
答う。この一文は、深意有るが故に、ことさらに吉きなり。
問う。その深意いかん。
答う。この文は、釈尊、本眷属たる地涌の菩薩に結要の五字の当体を付嘱したもうと説く文なるが故なり。久遠実成の釈迦如来は、「我が昔の願いしところのごときは、今、すでに満足しぬ。一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」とて、御願すでに満足し、「如来滅して後、後の五百歳の中、広宣流布」の付嘱を説かんがため、地涌の菩薩を召し出だし、本門の当体蓮華を要をもって付嘱し給える文なれば、釈尊出世の本懐、道場所得の秘法、末法の我らが現当二世を成就する当体蓮華の誠証はこの文なり。故に、末法今時において、如来の御使いより外に当体蓮華の証文を知って出だす人すべて有るべからざるなり。真実もって秘文なり。真実もって大事なり。真実もって尊きなり。南無妙法蓮
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(038)当体義抄 | 文永10年(’73) | 52歳 | 最蓮房 |