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正直に方便を捨てて、ただ法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱うる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即ち一心に顕れ、その人の所住の処は常寂光土なり。能居・所居、身土、色心、俱体俱用、無作の三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中のことなり。
これ即ち法華の当体、自在神力の顕すところの功能なり。あえてこれを疑うべからず、これを疑うべからず。
問う。天台大師、妙法蓮華の当体・譬喩の二義を釈し給えり。しかれば、その当体・譬喩の蓮華の様はいかん。
答う。譬喩の蓮華とは、施・開・廃の三釈、委しくこれを見るべし。
当体蓮華の釈は、玄義第七に云わく「蓮華は譬えにあらず。当体に名を得。類せば、劫初に万物名無く、聖人理を観じて準則して名を作るがごとし」文。また云わく「今、蓮華の称は、これ喩えを仮るにあらず。乃ちこれ法華の法門なり。法華の法門は清浄にして因果微妙なれば、この法門を名づけて蓮華となす。即ちこれ法華三昧の当体の名にして、譬喩にあらざるなり」。また云わく「問う。蓮華は定めてこれ法華三昧の蓮華なりや、定めてこれ華草の蓮華なりや。答う。定めてこれ法蓮華なり。法蓮華は解し難し。故に草花を喩えとなす。利根は名に即して理を解し、譬喩を仮らずして、ただ法華の解のみを作す。中・下はいまだ悟らず。譬えを須いて乃ち知る。易解の蓮華をもって難解の蓮華に喩う。故に、三周の説法有って、上・中・下根に逗う。上根に約せば、これ法の名、中・下に約せば、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(038)当体義抄 | 文永10年(’73) | 52歳 | 最蓮房 |