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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

びに頓漸・大小の諸経なり。証拠は、無量義経に云わく「次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説す」文。大強精進経の「同共」の二字に習い相伝するなり。法華経に同共して信ずる者は、妙経の体なり。不同共の念仏者等は、既に仏性・法身如来に背くが故に妙経の体にあらざるなり。利根の菩薩は、正直に方便を捨てて次第行を修せず。もし法華経を証する時は衆果ことごとく具足す。これを一乗の衆生と名づくるなり。
 これらの文の意を案ずるに、三乗・五乗・七方便・九法界・四味三教・一切の凡聖等をば、大乗の衆生、妙法蓮華の当体とは名づくべからざるなり。たとい仏なりといえども、権教の仏をば仏界の名言を付くべからず。権教の三身はいまだ無常を免れざるが故に。いかにいわんや、その余の界々の名言をや。故に「正像二千年の国王・大臣よりも、末法の非人は尊貴なり」と釈するも、この意なり。
 詮ずるところ、妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母の生みたるところの肉身これなり。
 南岳釈して云わく「一切衆生、法身の蔵を具足して、仏と一にして異なり有ることなし。この故に、法華に云わく『父母の生みたるところの清浄の常の眼・耳・鼻・舌・身・意も、またかくのごとし』と」文。また云わく「問うて云わく、仏、いずれの経の中に、眼等の諸根を説いて名づけて如来となすや。答えて云わく、大強精進経の中に『衆生と如来と同じく共に一法身にして清浄妙無比なるを、妙法蓮華経と称す』と」文。文は他経に有りといえども、下文顕れ已われば、通じて引用することを得るなり。