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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 譬えば、水精の玉の、日輪に向かえば火を取り、月輪に向かえば水を取る。玉の体は一なれども、縁に随ってその功同じからざるがごとし。真如の妙理もまたまたかくのごとし。一妙真如の理なりといえども、悪縁に遇えば迷いと成り、善縁に遇えば悟りと成る。悟りは即ち法性なり。迷いは即ち無明なり。譬えば、人、夢に種々の善悪の業を見、夢覚めて後にこれを思えば、我が一心に見るところの夢なるがごとし。一心は法性真如の一理なり。夢の善悪は迷・悟の無明・法性なり。
 かくのごとく意得れば、悪迷の無明を捨てて、善悟の法性を本となすべきなり。
 大円覚修多羅了義経に云わく「一切諸の衆生の無始の幻無明は、皆諸の如来の円覚の心より建立す」云々。天台大師、止観に云わく「無明癡惑、本よりこれ法性なり。癡迷をもっての故に、法性変じて無明と作る」云々。妙楽大師、釈して云わく「理性は体無く、全く無明に依る。無明は体無く、全く法性に依る」云々。「無明は断ずるところの迷、法性は証するところの理なり。何ぞ体一なりと云うや」といえる不審をば、これらの文義をもって意得べきなり。大論九十五の夢の譬え、天台一家の玉の譬え、誠に面白く思うなり。正しく無明・法性その体一なりという証拠は、法華経に云わく「この法は法位に住して、世間の相は常住なり」云々。大論に云わく「明と無明と、異無く別無し。かくのごとく知れば、これを中道と名づく」云々。
 ただし、真如の妙理に染・浄の二法有りということ、証文これ多しといえども、華厳経に云わく「心、仏および衆生、この三つは差別無し」の文と、法華経の「諸法実相」の文とには過ぐべからざるなり。南岳大師云わく「心体に染・浄の二法を具足して、しかも異相無く、一味平等なり」云々。