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問うて云わく、「後の五百歳」は汝一人に限らず。何ぞ殊にこれを喜悦せしむるや。
答えて云わく、法華経の第四に云わく「如来の現に在すすらなお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや」文。天台大師云わく「いかにいわんや未来をや。理、化し難きに在るなり」文。妙楽大師云わく「『理、化し難きに在り』とは、この理を明かすことは、意、衆生の化し難きを知らしむるに在り」文。智度法師云わく「俗に良薬口に苦しと言うがごとく、この経は五乗の異執を廃して一極の玄宗を立つ。故に、凡を斥け聖を呵し、大を排し小を破す乃至かくのごときの徒、ことごとく留難をなす」等云々。
伝教大師云わく「代を語れば則ち像の終わり末の始め、地を尋ぬれば唐の東・羯の西、人を原ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり。経に云わく『なお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや』。この言、良に以有るなり」等云々。この伝教大師の筆跡は、その時に当たるに似たれども、意は当時を指すなり。「正像やや過ぎ已わって、末法はなはだ近きに有り」の釈は、心有るかな。
経に云わく「悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等、その便りを得ん」。言うところの「等」とは、この経にまた云わく「もしは夜叉、もしは羅刹、もしは餓鬼、もしは富単那、もしは吉遮、もしは毘陀羅、もしは犍駄、もしは烏摩勒伽、もしは阿跋摩羅、もしは夜叉吉遮、もしは人吉遮」等云々。この文のごときは、先生に四味三教乃至外道・人天等の法を持得して、今生に悪魔・諸天・諸人等の身を受けたる者が、円実の行者を見聞して留難を至すべき由を説くなり。
疑って云わく、正像の二時を末法に相対するに、時と機と共に正像は殊に勝るるなり。何ぞ、その時機を捨てて、ひとえに当時を指すや。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(037)顕仏未来記 | 文永10年(’73)閏5月11日 | 52歳 |