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に云わく「汝舎利弗すら、なおこの経においては、信をもって入ることを得たり。いわんや余の声聞をや」。文の心は、大智舎利弗も、法華経には信をもって入る。その智分の力にはあらず。いわんや自余の声聞をやとなり。されば、法華経に来って信ぜしかば、「永く成仏せず」の名を削って華光如来となり。嬰児に乳をふくむるに、その味をしらずといえども、自然にその身を生長す。医師が病者に薬を与うるに、病者薬の根源をしらずといえども、服すれば任運と病愈ゆ。もし薬の源をしらずと云って医師の与うる薬を服せずば、その病愈ゆべしや。薬を知るも知らざるも、服すれば病の愈ゆること、もってこれ同じ。
既に仏を良医と号し、法を良薬に譬え、衆生を病人に譬う。されば、如来一代の教法を擣き簁い和合して、妙法一粒の良薬に丸ぜり。あに、知るも知らざるも、服せん者、煩悩の病愈えざるべしや。病者は、薬をもしらず、病をも弁えずといえども、服すれば必ず愈ゆ。行者もまたしかなり。法理をもしらず、煩悩をもしらずといえども、ただ信ずれば、見思・塵沙・無明の三惑の病を同時に断じて、実報・寂光の台にのぼり、本有三身の膚を磨かんこと疑いあるべからず。されば、伝教大師云わく「能化・所化ともに歴劫無し。妙法経力もて即身成仏す」と。法華経の法理を教えん師匠も、また習わん弟子も、久しからずして法華経の力をもって、ともに仏になるべしという文なり。
天台大師も、法華経に付いて、玄義・文句・止観の三十巻の釈を造り給う。妙楽大師は、また釈籤・疏記・輔行の三十巻の末文を重ねて消釈す。天台六十巻とはこれなり。玄義には、名・体・宗・用・教の五重玄を建立して、妙法蓮華経の五字の功能を判釈す。五重玄を釈する中の宗の釈に云わく
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(034)聖愚問答抄 | 文永5年(’68) | 47歳 |