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を示さん。法華経第八の陀羅尼品に云わく「汝等はただ能く法華の名を受持せん者を擁護せんすら、福は量るべからず」。この文の意は、仏、鬼子母神・十羅刹女の法華経の行者を守らんと誓い給うを讃むるとして、汝等「法華の首題を持つ人を守るべし」と誓うその功徳は、三世了達の仏の智慧もなお及びがたしと説かれたり。仏智の及ばぬこと何かあるべきなれども、法華の題名受持の功徳ばかりはこれを知らずと宣べたり。
法華一部の功徳は、ただ妙法等の五字の内に籠もれり。一部八巻、文々ごとに二十八品生起かわれども、首題の五字は同等なり。譬えば、日本の二字の中に六十余州・島二つ、入らぬ国やあるべき、籠もらぬ郡やあるべき。飛鳥とよべば空をかけるものと知り、走獣といえば地をはしるものと心うる。一切、名の大切なること、けだし、もってかくのごとし。天台は「名は自性を詮じ、句は差別を詮ず」とも、「名は大綱なり」とも判ずる、この謂いなり。また名は物をめす徳あり、物は名に応ずる用あり。法華題名の功徳も、またもってかくのごとし。
愚人云わく、聖人の言のごとくんば、実に首題の功、莫大なり。ただし、知ると知らざるとの不同あり。我は弓箭に携わり、兵杖をむねとして、いまだ仏法の真味を知らず。もししからば、得るところの功徳何ぞそれ深からんや。
聖人云わく、円頓の教理は初後全く不二にして、初位に後位の徳あり。「一行は一切行」にして、功徳備わらざるはこれ無し。もし汝が言のごとくんば、功徳を知って植えずんば、上は等覚より下は名字に至るまで得益さらにあるべからず。今の経は「ただ仏と仏とのみ」と談ずるが故なり。譬喩品
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(034)聖愚問答抄 | 文永5年(’68) | 47歳 |