SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

重んずるの情、溟海よりも深し。今の文の初後は、必ず多きが尊く少なきが卑しきにあらざること、前に示すがごとし。ここにまた、小が大を兼ね、一が多に勝るということ、これを談ぜん。彼の尼拘類樹の実は、芥子三分が一のせいなり。されども五百輛の車を隠す徳あり。これ小が大を含めるにあらずや。また如意宝珠は、一つあれども万宝を雨らして欠くるところこれ無し。これまた少なきが多きを兼ねたるにあらずや。世間のことわざにも「一は万が母」といえり。これらの道理を知らずや。詮ずるところ、実相の理の背契を論ぜよ。あながちに多少を執することなかれ。
 汝至って愚かなり。今、一つの譬えを仮らん。夫れ、妙法蓮華経とは、一切衆生の仏性なり。仏性とは法性なり。法性とは菩提なり。いわゆる、釈迦・多宝・十方の諸仏、上行・無辺行等、普賢・文殊、舎利弗・目連等、大梵天王・釈提桓因、日月明星・北斗七星・二十八宿・無量の諸星、天衆地類・竜神八部・人天大会・閻魔法王、上は非想の雲の上、下は那落の炎の底まで、あらゆる一切衆生の備うるところの仏性を、妙法蓮華経とは名づくるなり。されば、一遍この首題を唱え奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれてここに集まる時、我が身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕れ出ずる、これを成仏とは申すなり。例せば、籠の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる、これを見て籠の内の鳥も出でんとするがごとし。
 ここに愚人云わく、首題の功徳、妙法の義趣、今聞くところ詳らかなり。ただし、この旨趣、正しく経文にこれをのせたりや、いかん。
 聖人云わく、その理詳らかならん上は、文を尋ぬるに及ばざるか。しかれども、請いに随ってこれ