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月をさす指、教網なんど下す。小乗律等は、法華経は邪教、天魔の所説と名づけたり。これらあに謗法にあらずや。責めてもなおあまりあり。禁めてもまたたらず。
愚人云わく、日本六十余州、人替わり法異なりといえども、あるいは念仏者、あるいは真言師、あるいは禅、あるいは律、誠に一人として謗法ならざる人はなし。しかりといえども、人の上沙汰してなにかせん。ただ我が心中に深く信受して、人の誤りをば余所のことにせんと思う。
聖人示して云わく、汝言うところ実にしかなり。我もその義を存せしところに、経文には、あるいは「身命を惜しまず」とも、あるいは「むしろ身命を喪うとも」とも説く。何故にかようには説かるるやと存ずるに、ただ人をはばからず経文のままに法理を弘通せば、謗法の者多からん世には必ず三類の敵人有って命にも及ぶべしと見えたり。その仏法の違目を見ながら、我もせめず国主にも訴えずば、教えに背いて仏弟子にはあらずと説かれたり。
涅槃経第三に云わく「もし善比丘あって、法を壊る者を見て、置いて、呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、この人は仏法の中の怨なり。もし能く駆遣し呵責し挙処せば、これ我が弟子、真の声聞なり」。この文の意は、仏の正法を弘めん者、経教の義を悪しく説かんを聞き見ながら、我もせめず、我が身及ばずば国主に申し上げてもこれを対治せずば、仏法の中の敵なり。もし経文のごとくに、人をもはばからず、我もせめ国主にも申さん人は、仏弟子にして真の僧なりと説かれて候。
されば、「仏法の中の怨なり」の責めを免れんとて、かように諸人に悪まるれども、命を釈尊と法華経に奉り慈悲を一切衆生に与えて謗法を責むるを、心えぬ人は、口をすくめ眼を瞋らす。汝実に
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(034)聖愚問答抄 | 文永5年(’68) | 47歳 |