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閑静にも居して、読誦・書写をもし、観念・工夫をも凝らすべし。これ天下の静かなる時筆硯を用いるがごとし。権宗・謗法、国にあらん時は、諸事を閣いて謗法を責むべし。これ合戦の場に兵杖を用ゆるがごとし。
しかれば、章安大師、涅槃の疏に釈して云わく「昔の時は平らかにして法弘まる。応に戒を持つべし。杖を持つことなかれ。今の時は嶮にして法翳くる。応に杖を持つべし。戒を持つことなかれ。今昔ともに嶮ならば、応にともに杖を持つべし。今昔ともに平らかならば、応にともに戒を持つべし。取捨宜しきを得て、一向にすべからず」。この釈の意、分明なり。昔は世もすなおに人もただしくして、邪法・邪義無かりき。されば、威儀をただし、穏便に行業を積んで、杖をもって人を責めず、邪法をとがむること無かりき。今の世は濁世なり。人の情もひがみゆがんで権教・謗法のみ多ければ、正法弘まりがたし。この時は、読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。ただ折伏を行じて、力あらば威勢をもって謗法をくだき、また法門をもっても邪義を責めよとなり。取捨その旨を得て、一向に執することなかれと書けり。
今の世を見るに、正法一純に弘まる国か、邪法の興盛する国か、勘うべし。しかるを、浄土宗の法然は、念仏に対して法華経を捨閉閣抛とよみ、善導は、法華経を雑行と名づけ、あまつさえ千中無一とて、千人信ずとも一人得道の者あるべからずと書けり。真言宗の弘法は、法華経を、華厳にも劣り、大日経には三重の劣と書き、戯論の法と定めたり。正覚房は、法華経は大日経のはきものとりにも及ばずと云い、釈尊をば大日如来の牛飼いにもたらずと判ぜり。禅宗は、法華経を、吐きたるつばき、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(034)聖愚問答抄 | 文永5年(’68) | 47歳 |