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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

命に背いて雲雷音王仏の御弟子となり、終に父を導いて沙羅樹王仏と申す仏になし申されけるは、不孝の人と云うべきか。経文には「恩を棄てて無為に入るは、真実に恩を報ずる者なり」と説いて、今生の恩愛をば皆すてて仏法の実の道に入る、これ実に恩をしれる人なりと見えたり。
 また、主君の恩の深きこと、汝よりも能くしれり。汝もし知恩の望みあらば、深く諫め、強いて奏せよ。非道にも主命に随わんということ、佞臣の至り、不忠の極まりなり。殷の紂王は悪王、比干は忠臣なり。政事理に違いしを見て強いて諫めしかば、即ち比干は胸を割かる。紂王は比干死して後、周の王に打たれぬ。今の世までも比干は忠臣といわれ、紂王は悪王といわる。夏の桀王を諫めし竜逢は頭をきられぬ。されども、桀王は悪王、竜逢は忠臣とぞ云う。「主君を三度諫むるに用いずば山林に交われ」とこそ教えたれ。何ぞその非を見ながら黙せんと云うや。
 古の賢人、世を遁れて山林に交わりし先蹤を集めて、いささか汝が愚耳に聞かしめん。殷の代の太公望は磻渓という谷に隠る。周の代の伯夷・叔斉は首陽山という山に籠もる。秦の綺里季は商洛山に入り、漢の厳光は孤亭に居し、晋の介子綏は綿上山に隠れぬ。これらをば不忠と云うべきか。愚かなり。汝、忠を存せば諫むべし。孝を思わば言うべきなり。
 まず、汝「権教・権宗の人は多く、この宗の人は少なし。何ぞ多を捨てて少に付く」と云うこと、必ず多きが尊くして少なきが卑しきにあらず。賢善の人は希に、愚悪の者は多し。麒麟・鸞鳳は禽獣の奇秀なり。しかれども、これははなはだ少なし。牛羊・烏鴿は畜鳥の拙卑なり。されども、これは転た多し。必ず多きがたっとくして少なきがいやしくば、麒麟をすてて牛羊をとり、鸞鳳を閣いて烏