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べからず。
されば、教主釈尊は、転輪聖王の末、師子頰王の孫、浄飯王の嫡子として五天竺の大王たるべしといえども、生死無常の理をさとり、出離解脱の道を願って世を厭い給いしかば、浄飯大王これを歎き、四方に四季の色を顕して太子の御意を留め奉らんと巧み給う。まず東には、霞たなびくたえまよりかりがねこしじに帰り、窓の梅の香玉簾の中にかよい、じょうじょうたる花の色、ももさえずりの鶯、春の気色を顕せり。南には、泉の色白たえにして、かの玉川の卯の華、信太の森のほととぎす、夏のすがたを顕せり。西には、紅葉常葉に交わればさながら錦をおり交え、荻ふく風閑かにして松の嵐ものすごし。過ぎにし夏のなごりには、沢辺にみゆる蛍の光あまつ空なる星かと誤り、松虫・鈴虫の声々涙を催せり。北には、枯れ野の色いつしかものうく、池の汀につららいて、谷の小川もおとさびぬ。
かかるありさまを造って御意をなぐさめ給うのみならず、四門に五百人ずつの兵を置いて守護し給いしかども、終に太子の御年十九と申せし二月八日の夜半の比、車匿を召して金泥駒に鞍置かせ、伽耶城を出でて檀特山に入り、十二年、高山に薪をとり深谷に水を結んで難行苦行し給い、三十成道の妙果を感得して、三界の独尊、一代の教主と成って、父母を救い群生を導き給いしをば、さて不孝の人と申すべきか。仏を不孝の人と云いしは、九十五種の外道なり。父母の命に背いて無為に入り、還って父母を導くは、孝の手本なること、仏その証拠なるべし。
彼の浄蔵・浄眼は、父の妙荘厳王、外道の法に著して仏法に背き給いしかども、二人の太子は父の
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(034)聖愚問答抄 | 文永5年(’68) | 47歳 |