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に似たれども、一・両の文を勘えて汝が迷いを払わしめん。
補註十一に云わく「また、もし言説に滞ると謂わば、しばらく娑婆世界には、将に何をもって仏事となさんや。禅徒あに言説もて人に示さざらんや。文字を離れて解脱の義を談ずることなし。あに聞かざらんや」。乃至、次下に云わく「あに達磨西より来って『直ちに人心を指し見性して成仏す』というに、しかも華厳等の諸大乗経にこのこと無からんや。ああ、世人、何ぞそれ愚かなるや。汝等当に仏の所説を信ずべし。諸仏如来は言に虚妄無し」。
この文の意は、もし教文にとどこおり言説にかかわるとて教の外に修行すといわば、この娑婆国にはさていかんがして仏事・善根を作すべき。さように云うところの禅人も、人に教うる時は言をもって云わざるべしや。その上、仏道の解了を云う時、文字を離れて義なし。また達磨西より来って直ちに人心を指して仏なりと云う。これ程の理は、華厳・大集・大般若等の法華已前の権大乗経にも在々処々にこれを談ぜり。これをいみじきこととせんは、無下に云うかいなきことなり。ああ、今の世の人、何ぞはなはだひがめるや。ただ中道実相の理に契当せる妙覚果満の如来の誠諦の言を信ずべきなり。
また妙楽大師、弘決の一に、この理を釈して云わく「世人、教を蔑ろにして理観を尚ぶは、誤れるかな、誤れるかな」と。この文の意は、今の世の人々は、観心・観法を先として経教を尋ね学ばず、還って教をあなずり経をかろしむる、これ誤れりと云う文なり。
その上、当世の禅人、自宗に迷えり。続高僧伝を披見するに、習禅の初祖・達磨大師の伝に云わく
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(034)聖愚問答抄 | 文永5年(’68) | 47歳 |