SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

しくべからず。およそ万法を払遣して言語の及ばざるところを、禅法とは名づけたり。
 されば、跋提河の辺、沙羅林の下にして、釈尊、金棺より御足を出だし拈華微笑して、この法門を迦葉に付嘱ありしより已来、天竺二十八祖系乱れず、唐土には六祖次第に弘通せり。達磨は西天にしては二十八祖の終わり、東土にしては六祖の始めなり。相伝をうしなわず、教網に滞るべからず。ここをもって大梵天王問仏決疑経に云わく「吾に正法眼蔵、涅槃の妙心、実相無相、微妙の法門有り。教外に別伝し、文字を立てず、摩訶迦葉に付嘱す」とて、迦葉にこの禅の一法をば教外に伝うと見えたり。
 すべて修多羅の経教は月をさす指、月を見て後は指何かはせん。心の本分、禅の一理を知って後は、仏教に心を留むべしや。されば古人云わく「十二部経はすべてこれ閑文字」と云々。よって、この宗の六祖・慧能の壇経を披見するに、実にもってしかなり。言下に契会して後は、教は何かせん。この理いかんが弁えんや。
 聖人示して云わく、汝まず法門を置いて道理を案ぜよ。そもそも、我、一代の大途を伺わず十宗の淵底を究めずして、国を諫め人を教うべきか。汝が談ずるところの禅は、我最前に習い極めてその至極を見るに、はなはだもって僻事なり。禅に三種あり。いわゆる、如来禅と教禅と祖師禅となり。汝が言うところの祖師禅等の一端、これを示さん。聞いてその旨を知れ。
 もし教を離れてこれを伝うといわば、教を離れて理無く、理を離れて教無し。理全く教、教全く理という道理、汝これを知らざるや。「拈華微笑して、迦葉に付嘱し給う」というも、これ教なり。「不立文字」という四字も、即ち教なり、文字なり。このこと、和漢両国に事旧りぬ。今いえば事新しき