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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

大日如来の牛飼いにも足らず」と書けり。
 汝、心を静めて聞け。一代の五千・七千の経教、外典三千余巻にも、「法華経は戯論、三重の劣、華厳経にも劣り、釈尊は無明に迷える仏にて大日如来の牛飼いにも足らず」と云う慥かなる文ありや。たといさる文有りというとも、能く能く思案あるべきか。
 経教は西天より東土に洎ぼす時、訳者の意楽に随って経論の文不定なり。さて後秦の羅什三蔵は、「我漢土の仏法を見るに、多く梵本に違せり。我が訳するところの経、もし誤りなくば、我死して後、身は不浄なれば焼くるというとも、舌ばかりは焼けざらん」と常に説法し給いしに、焼き奉る時、御身は皆骨となるといえども、御舌ばかりは青蓮華の上に光明を放って日輪を映奪し給いき。有り難きことなり。さてこそ、ことさら彼の三蔵の訳するところの法華経は、唐土にやすやすと弘まらせ給いしか。しかれば、延暦寺の根本大師、諸宗を責め給いしには、「法華を訳する三蔵は舌の焼けざる験あり。汝等が依経は皆誤れり」と破し給うはこれなり。涅槃経にも「我が仏法は他国へ移らん時、誤り多かるべし」と説き給えば、経文にたとい「法華経はいたずらごと」、釈尊をば「無明に迷える仏なり」とありとも、権教・実教、大乗・小乗、説時の前後、訳者、能く能く尋ぬべし。いわゆる、老子・孔子は九思一言・三思一言、周公旦は食するに三度吐き沐するに三度にぎる。外典のあさき、なおかくのごとし。いわんや、内典の深義を習わん人をや。その上、この義、経論に迹形もなし。「人を毀り、法を謗じては、悪道に堕つべし」とは、弘法大師の釈なり。必ず地獄に堕ちんこと、疑いなきものなり。
 ここに愚人、茫然とほれ、忽然となげいて、やや久しゅうして云わく、この大師は内外の明鏡、衆