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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 ここに愚人色を作して云わく、汝賤しき身をもってほしいままに莠言を吐く。悟って言うか、迷って言うか、理非弁え難し。忝くも善導和尚は弥陀善逝の応化、あるいは勢至菩薩の化身と云えり。法然上人もまたしかなり。善導の後身といえり。上古の先達たる上、行徳秀発し、解了底を極めたり。何ぞ悪道に堕ち給うと云うや。
 聖人云わく、汝が言しかなり。予も仰いで信を取ること、かくのごとし。ただし、仏法はあながちに人の貴賤には依るべからず、ただ経文を先とすべし。身の賤しきをもって、その法を軽んずることなかれ。「有人楽生悪死。有人楽死悪生(人有って生を楽い死を悪む。人有って死を楽い生を悪む)」の十二字を唱えし毘摩大国の狐は、帝釈の師と崇められ、「諸行無常」等の十六字を談ぜし鬼神は、雪山童子に貴まる。これ必ず狐と鬼神との貴きにあらず。ただ法を重んずる故なり。
 されば、我らが慈父・教主釈尊、双林最後の御遺言・涅槃経の第六には、「法に依って人に依らざれ」とて、普賢・文殊等の等覚已還の大薩埵、法門を説き給うとも、経文を手に把らずば用いざれとなり。天台大師云わく「修多羅と合わば、録してこれを用いる。文無く義無ければ信受すべからず」文。釈の意は、経文に明らかならんを用いよ、文証無からんをば捨てよとなり。伝教大師云わく「仏説に依憑せよ。口伝を信ずることなかれ」文。前の釈と同意なり。竜樹菩薩云わく「修多羅に依るは白論なり。修多羅に依らざるは黒論なり」文。意は、経の中にも法華已前の権教をすててこの経につけよとなり。経文にも論文にも、法華に対して諸余の経典を捨てよと云うこと分明なり。しかるに、開元の録に挙ぐるところの五千・七千の経巻に、「法華経を捨てよ、乃至抛てよ」と嫌うことも、また雑行