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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

る者やはある。しかれば、外典のいやしきおしえにも「朝に紅顔有って世路に誇るとも、夕べには白骨となって郊原に朽ちぬ」と云えり。雲上に交わって、雲のびんずらあざやかに、雪のたもとをひるがえすとも、その楽しみをおもえば、夢の中の夢なり。山のふもと、蓬がもとはついの栖なり。玉の台、錦の帳も、後世の道にはなにかせん。小野小町・衣通姫が花の姿も無常の風にちり、樊噲・張良が武芸に達せしも獄卒の杖をかなしむ。されば、心ありし古人の云わく「あわれなり鳥べの山の夕煙おくる人とてとまるべきかは」。「末のつゆ本のしずくや世の中のおくれさきだつためしなるらん」。先亡後滅の理、始めて驚くべきにあらず。願うても願うべきは仏道、求めても求むべきは経教なり。そもそも、汝が云うところの法門をきけば、あるいは小乗、あるいは大乗、位の高下はしばらくこれを置く、還って悪道の業たるべし。
 ここに、愚人、驚いて云わく、如来一代の聖教はいずれも衆生を利せんがためなり。始め七処八会の筵より終わり跋提河の儀式まで、いずれか釈尊の所説ならざる。たとい一分の勝劣をば判ずとも、何ぞ悪道の因と云うべきや。
 聖人云わく、如来一代の聖教に、権有り実有り、大有り小有り、また顕密二道相分かち、その品一つにあらず。すべからく、その大途を示して汝が迷いを悟らしめん。
 夫れ、三界の教主・釈尊は、十九歳にして伽耶城を出でて、檀特山に籠もって難行苦行し、三十成道の刻みに三惑頓に破し、無明の大夜ここに明けしかば、すべからく本願に任せて一乗妙法蓮華経を宣ぶべしといえども、機縁万差にしてその機仏乗に堪えず。しかれば、四十余年に所被の機縁を調え