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ねて師とすべし。求めて崇むべし。
夫れ、人界に生を受くるを天上の糸にたとえ、仏法の視聴は浮き木の穴に類いせり。身を軽くして法を重くすべしと思うによって衆山に攀じ、歎きに引かれて諸寺を回る。足に任せて一つの巌窟に至るに、後には青山峨々として松風常楽我浄を奏し、前には碧水湯々として岸うつ波四徳波羅蜜を響かす。深谷に開敷せる花も中道実相の色を顕し、広野に綻ぶる梅も界如三千の薫りを添う。言語道断・心行所滅せり。謂いつべし、商山の四皓の所居とも。また知らず、古仏経行の迹なるか。景雲朝に立ち、霊光夕べに現ず。ああ、心をもって計るべからず、詞をもって宣ぶべからず。予この砌に沈吟とさまよい、彷徨とたちもとおり、徙倚とたたずむ。この処に忽然として一りの聖人坐す。その行儀を拝すれば、法華読誦の声深く心肝に染みて、閑窓の戸ぼそを伺えば、玄義の牀に臂をくたす。
ここに聖人、予が求法の志を酌み知って詞を和らげ、予に問うて云わく、汝なにによって、この深山の窟に至れるや。
予答えて云わく、生をかろくして法をおもくする者なり。
聖人問うて云わく、その行法いかん。
予答えて云わく、本より我は、俗塵に交わっていまだ出離を弁えず。たまたま善知識に値って、始めには律、次には念仏・真言ならびに禅、これらを聞くといえども、いまだ真偽を弁えず。
聖人云わく、汝が詞を聞くに、実にもってしかなり。身をかろくして法をおもくするは先聖の教え、予が存するところなり。そもそも上は非想の雲の上、下は那落の底までも、生を受けて死をまぬかる
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(034)聖愚問答抄 | 文永5年(’68) | 47歳 |