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自受法楽のために、法身大日如来の金剛薩埵を所化として説き給うところの大日経等の三部なり。
愚人云わく、実にもってしかなり。先非をひるがえして、賢き教えに付き奉らんと思うなり。
またここに、萍のごとく諸州を回り、蓬のごとく県々に転ずる非人の、それとも知らず来り、門の柱に寄り立って含笑み、語ることなし。あやしみをなしてこれを問うに、始めには云うことなし。後に強いて問いを立つる時、彼が云わく「月蒼々として風忙々たり」と。形質常に異に、言語また通ぜず。その至極を尋ぬれば、当世の禅法これなり。予、彼の人の有り様を見、その言語を聞いて仏道の良因を問う時、非人云わく、修多羅の教えは月をさす指、教網はこれ言語にとどこおる妄事なり。我が心の本分におちつかんと出で立つ法は、その名を禅と云うなり。
愚人云わく、願わくは、我聞かんと思う。
非人云わく、実にその志深くば、壁に向かい坐禅して、本心の月を澄ましめよ。ここをもって、西天には二十八祖系乱れず、東土には六祖の相伝明白なり。汝これを悟らずして教網にかかる。不便、不便。「是心即仏、即心是仏」なれば、この身の外に、さらにいずくにか仏あらんや。
愚人この語を聞いてつくづくと諸法を観じ、閑かに義理を案じて云わく、仏教万差にして、理非明らめ難し。宜なるかな、常啼は東に請い、善財は南に求め、薬王は臂を焼き、楽法は皮を剝ぐ。善知識実に値い難し。あるいは教内と談じ、あるいは教外と云う。このことわりを思うに、いまだ淵底を究めず法水に臨む者は深淵の思いを懐き、人師を見る族は薄氷の心を成せり。ここをもって金言には、「法に依って人に依らざれ」と定め、また爪上の土の譬えあり。もし仏法の真偽をしる人あらば、尋
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(034)聖愚問答抄 | 文永5年(’68) | 47歳 |