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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

には不邪淫戒、五には不飲酒戒、これなり。二百五十戒のことは多きあいだ、これを略す。
 その時に愚人、礼拝・恭敬して云わく、我、今日より深くこの法を持ち奉るべし。
 ここに予が年来の知音、ある所に隠居せる居士一人あり。予が愁歎を訪わんために来れるが、始めには往事渺茫として夢に似たることをかたり、終わりには行く末の冥々として弁え難きことを談ず。鬱を散じ思いをのべて後、予に問うて云わく、そもそも人の世に有る、誰か後生を思わざらん。貴辺いかなる仏法をか持って出離をねがい、また亡者の後世をも訪い給うや。
 予答えて云わく、一日、ある上人来って、我がために五戒・二百五十戒を授け給えり。実にもって心肝にそみて貴し。我深く良観上人のごとく、及ばぬ身にも、わろき道を作り、深き河には橋をわたさんと思えるなり。
 その時、居士示して云わく、汝が道心貴きに似て愚かなり。今談ずるところの法は、浅ましき小乗の法なり。されば、仏は則ち八種の喩えを設け、文殊はまた十七種の差別を宣べたり。あるいは蛍火・日光の喩えを取り、あるいは水精・瑠璃の喩えあり。ここをもって三国の人師も、その破文一つにあらず。
 次に行者の尊重のこと、必ず人の敬うによって法の貴きにあらず。されば、仏は、「法に依って人に依らざれ」と定め給えり。我伝え聞く、上古の持律の聖者の振る舞いは、殺を言い収を言うには知浄の語有り、行雲廻雪には死屍の想いを作す。しかるに、今の律僧の振る舞いを見るに、布絹・財宝をたくわえ、利銭・借り請けを業とす。教行既に相違せり。誰かこれを信受せん。
 次に道を作り橋を渡すこと、還って人の歎きなり。飯島の津にて六浦の関米を取る。諸人の歎きこれ