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を閉じ、人天大会は歓喜せしあまりに掌を合わせたりき。これひとえに妙の一字の徳なり。
この南閻浮提の内に二千五百の河あり。一々に皆まがれり。南閻浮提の女人の心のまがれるがごとし。ただし娑婆耶と申す河あり。縄を引きはえたるがごとくして、直ちに西海に入る。法華経を信ずる女人、またまたかくのごとく、直ちに西方浄土へ入るべし。これ妙の一字の徳なり。
妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すは、よみがえる義なり。譬えば、黄鵠の子死せるに、鶴の母「子安」となけば、死せる子還って活り、鴆鳥水に入れば、魚蚌ことごとく死す。犀の角これにふるれば、死せる者皆よみがえるがごとく、爾前の経々にて仏種をいりて死せる二乗・闡提・女人等、妙の一字を持ちぬれば、いれる仏種も還って生ずるがごとし。天台云わく「闡提は心有り。なお作仏すべし。二乗は智を滅す。心生ずべからず。法華能く治す。また称して妙となす」。妙楽云わく「ただ大とのみ云って妙と名づけざることは、一には有心は治し易く、無心は治し難し。治し難きを能く治す。ゆえに妙と称す」等云々。これらの文の心は、大方広仏華厳経・大集経・大品経・大涅槃経等は題目に大の字のみありて妙の字なし。ただ生ける者を治して死せる者をば治せず。法華経は死せる者をも治するが故に妙と云う釈なり。
されば、諸経にしては、仏になる者も仏になるべからず。その故は、法華は仏になりがたき者すらなお仏になりぬ。なりやすき者は云うにや及ぶという道理立ちぬれば、法華経をとかれて後は、諸経におもむく人一人もあるべからず。しかるに、正像二千年過ぎて末法に入って、当世の衆生の成仏・往生のとげがたきことは、在世の二乗・闡提等にも百千万億倍すぎたる衆生の、観経等の四十余年の
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(033)法華経題目抄(妙の三義の事) | 文永3年(’66)1月6日 | 45歳 |