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いを生じて信ぜずんば、即ち当に悪道に堕つべし」等云々。これらは有解無信の者を説き給う。
しかるに、今の代に世間の学者の云わく「ただ信心ばかりにて解する心なく、南無妙法蓮華経と唱うるばかりにて、いかでか悪趣をまぬかるべき」等云々。この人々は、経文のごとくならば、阿鼻大城まぬかれがたし。
されば、させる解りなくとも、南無妙法蓮華経と唱うるならば、悪道をまぬかるべし。譬えば蓮華は日に随って回る。蓮に心なし。芭蕉は雷によりて増長す。この草に耳なし。我らは蓮華と芭蕉とのごとく、法華経の題目は日輪と雷とのごとし。犀の生角を身に帯して水に入りぬれば、水五尺、身に近づかず。栴檀の一葉開きぬれば、四十由旬の伊蘭を変ず。我らが悪業は伊蘭と水とのごとく、法華経の題目は犀の生角と栴檀の一葉とのごとし。金剛は堅固にして一切の物に破られず。されども羊の角と亀の甲に破らる。尼俱類樹は大鳥にも枝おれざれども、かのまつげにすくうしょうりょう鳥に枝おれぬ。我らが悪業は金剛のごとし、尼俱類樹のごとし。法華経の題目は羊の角のごとく、しょうりょう鳥のごとし。琥珀は塵をとり、磁石は鉄をすう。我らが悪業は塵と鉄とのごとく、法華経の題目は琥珀と磁石とのごとし。かくおもいて、常に南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべし。
法華経の第一の巻に云わく「無量無数劫にも、この法を聞くこともまた難し」。第五の巻に云わく「この法華経は無量の国の中において、乃至名字をも聞くことを得べからず」等云々。法華経の御名をきくことは、おぼろけにもありがたきことなり。されば、須仙多仏・多宝仏は、世にいでさせ給いたりしかども、法華経の御名をだにもとき給わず。釈迦如来は、法華経のために世にいでさせ給いた
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(033)法華経題目抄(妙の三義の事) | 文永3年(’66)1月6日 | 45歳 |