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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 答えて云わく、しかるべきなり。
 問うて云わく、「火、火」といえども、手にとらざればやけず、「水、水」といえども、口にのまざれば水のほしさもやまず。ただ南無妙法蓮華経と題目ばかりを唱うとも、義趣をさとらずば、悪趣をまぬかれんこと、いかがあるべかるらん。
 答えて云わく、師子の筋を琴の絃として一度奏すれば余の絃ことごとくきれ、梅子のすき声をきけば口につたまりうるおう。世間の不思議すら、かくのごとし。いわんや、法華経の不思議をや。小乗の四諦の名ばかりをさやずる鸚鵡、なお天に生ず。三帰ばかりを持つ人、大魚の難をまぬかる。いかにいわんや、法華経の題目は八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目なり。なんじ、これをとなえて四悪趣をはなるべからずと疑うか。
 正直捨方便の法華経には「信をもって入ることを得たり」と云い、双林最後の涅槃経には「この菩提の因はまた無量なりといえども、もし信心を説かば、則ちすでに摂め尽くす」等云々。
 夫れ、仏道に入る根本は信をもって本とす。五十二位の中には十信を本とす。十信の位には信心初めなり。たといさとりなけれども信心あらん者は、鈍根も正見の者なり。たといさとりあれども信心なき者は、誹謗・闡提の者なり。
 善星比丘は二百五十戒を持ち、四禅定を得、十二部経を諳にせし者。提婆達多は六万・八万の宝蔵をおぼえ、十八変を現ぜしかども、これらは有解無信の者。今に阿鼻大城にありと聞く。迦葉・舎利弗等は無解有信の者なり。仏に授記を蒙って、華光如来・光明如来といわれき。仏説いて云わく「疑