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第八に縁覚道とは二つ有り。一には部行独覚。仏前に在って声聞のごとく小乗の法を習い、小乗の戒を持ち、見思を断じて永不成仏の者と成る。二には麟喩独覚。無仏の世に在って飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し、見思を断じて永不成仏の身と成る。戒もまた声聞のごとし。
この声聞・縁覚を二乗とは云うなり。
第九に菩薩界とは、六道の凡夫の中において、自身を軽んじ他人を重んじ、悪をもって己に向け、善をもって他に与えんと念う者有り。仏、この人のために、諸の大乗経において菩薩戒を説きたまえり。この菩薩戒において三つ有り。一には摂善法戒なり。いわゆる八万四千の法門を習い尽くさんと願う。二には饒益有情戒なり。一切衆生を度しての後に自ら成仏せんと欲する、これなり。三には摂律儀戒なり。一切の諸戒をことごとく持たんと欲する、これなり。華厳経の心を演ぶる梵網経に云わく「仏、諸の仏子に告げて言わく『十重の波羅提木叉有り。もし菩薩戒を受けてこの戒を誦せずんば、菩薩にあらず、仏種の子にあらず。我もまたかくのごとく誦す。一切の菩薩はすでに学し、一切の菩薩は当に学すべく、一切の菩薩は今学す』と」文。
菩薩というは、二乗を除いて一切の有情なり。小乗のごときは、戒に随って異なるなり。菩薩戒はしからず。一切の有心に必ず十重禁等を授く。一戒を持つを一分の菩薩と云い、つぶさに十分を受くるを具足の菩薩と名づく。故に、瓔珞経に云わく「一分の戒を受くることあれば一分の菩薩と名づけ、乃至二分・三分・四分、十分なるを具足の受戒という」文。
問うて云わく、二乗を除く文、いかん。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(026)十法界明因果抄 | 文応元年(’60)4月21日 | 39歳 |