462ページ
涅槃経に云わく「仏の正法において永く護惜建立の心無し」文。この文の意は、この大涅槃経の大法世間に滅尽せんを惜しまざる者は、即ちこれ誹謗の者なり。天台大師、法華経の怨敵を定めて云わく「聞くことを喜ばざる者を怨となす」文。
謗法は多種なり。大小流布の国に生まれて、一向に小乗の法を学んで身を治め、大乗に遷らざるは、これ謗法なり。また華厳・方等・般若等の諸大乗経を習える人も、諸経と法華経と等同の思いを作し、人をして等同の義を学ばしめ、法華経に遷らざるは、これ謗法なり。また、たまたま円機有る人の法華経を学ぶをも、我が法に付けて世利を貪らんがために、汝が機は法華経に当たらざる由を称して、この経を捨てて権経に遷らしむるは、これ大謗法なり。これらのごときは皆、地獄の業なり。
人間に生ずること、過去の五戒は強く三悪道の業因は弱きが故に、人間に生ずるなり。また当世の人も、五逆を作る者は少なく、十悪は盛んにこれを犯す。また、たまたま後世を願う人の、十悪を犯さずして善人のごとくなるも、自然に愚癡の失によって、身・口は善けれども意は悪しき師を信ず。ただ我のみこの邪法を信ずるにあらず、国を知行する人、人民を聳めて我が邪法に同ぜしめ、妻子・眷属・所従の人をもってまた聳め従え、我が行を行ぜしむ。故に、正法を行ぜしむる人において結縁を作さず、また民・所従等においても随喜の心を至さしめず。故に、自他共に謗法の者と成って、善を修し悪を止むるがごとき人も自然に阿鼻地獄の業を招くこと、末法において多分これ有るか。
阿難尊者は、浄飯王の甥、斛飯王の太子、提婆達多の舎弟、釈迦如来の従子なり。如来に仕え奉ること二十年、覚意三昧を得て、一代聖教を覚れり。仏入滅して後、阿闍世王、阿難に帰依し奉る。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(026)十法界明因果抄 | 文応元年(’60)4月21日 | 39歳 |