372ページ
所化の大衆、能化の円仏、皆これことごとく始覚なり。もししからば、本無今有の失何ぞ免るることを得んや。当に知るべし、四教の四仏則ち円仏と成るは、しばらく迹門の所談なり。この故に無始の本仏を知らず。故に無始無終の義欠けて具足せず。また無始の色心常住の義無し。ただし「この法は法位に住して」と説くことは、未来常住にして、これ過去常にあらざるなり。本有の十界互具を顕さざれば、本有の大乗菩薩界無きなり。故に知んぬ、迹門の二乗はいまだ見思を断ぜず、迹門の菩薩はいまだ無明を断ぜず、六道の凡夫は本有の六界に住せざれば、有名無実なり。
故に、涌出品に至って爾前・迹門の無明を断ぜる菩薩を、「五十小劫、半日のごとしと謂わしむ」と説く。これ則ち寿量品の久遠円仏の非長非短にして不二の義に迷うが故なり。爾前・迹門の断惑とは、外道の有漏断の退すれば起こるがごとし。いまだ久遠を知らざるをもって惑者の本となすなり。故に、四十一品断の弥勒は、本門立行の発起・影響・当機・結縁の地涌千界の衆を知らず。既に一分の無始の無明を断じて十界の一分の無始の法性を得れば、何ぞ等覚の菩薩を知らざらん。たとい等覚の菩薩を知らざるも、いかでか当機・結縁の衆を知らざらん。「いまし一人をも識らず」の文は、最も「いまだ三惑をも断ぜず」の故か。ここをもって、本門に至っては則ち爾前・迹門において随他意の釈を加え、また天・人・修羅に摂め、「五欲に貪著す」「妄見の網の中に」「凡夫は顚倒せるがために」と説き、釈の文には「我、道場に坐して一法をも得ず」と云う。蔵・通両仏の見思断も別・円二仏の無明断も、ならびに皆、見思・無明を断ぜず。故に随他意と云う。所化の衆生、三惑を断ずと謂えるは、これ実の断にあらず。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(021)十法界事 | 正元元年(’59) | 38歳 |