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くのごとし。自界の三惑を断じ尽くさんと欲すといえども、六界・二乗の三惑を断ずることを知らず。真実に証する時は、一衆生即ち十衆生、十衆生即ち一衆生なり。もし六界の見思を断ぜずんば、二乗の見思を断ずべからず。
かくのごとく説くといえども、迹門はただ九界の情を改め十界互具を明かすが故に、即ち円仏と成るなり。爾前当分の益を嫌うことなきが故に、「三界の諸の漏すでに尽き」「三百由旬を過ぎ」「始め我が身を見る」と説けり。
また爾前入滅の二乗は、実には見思を断ぜず、故に、六界を出でずといえども、迹門は二乗作仏が本懐なり。故に「彼の土において、この経を聞くことを得ん」と説く。既に「彼の土に聞くことを得ん」と云う。故に知んぬ、爾前の諸経には方便土無し。故に、実には実報ならびに常寂光も無し。菩薩の成仏を明かさんが故に、実報・寂光を仮立す。しかれども、菩薩に二乗を具す。二乗成仏せずんば、菩薩も成仏すべからざるなり。衆生無辺誓願度も満ぜず、二乗の沈空尽滅は、即ちこれ菩薩の沈空尽滅なり。凡夫、六道を出でざれば、二乗も六道を出ずべからず。なお下劣の方便土を明かさず。いわんや、勝れたる実報・寂光を明かさんや。実に見思を断ぜば、何ぞ方便を明かさざらん。菩薩、実に実報・寂光に至らば、何ぞ方便土に至ること無からん。ただ「無明を断ず」と云うが故に、仮に実報・寂光を立つといえども、上の二土無きが故に、同居の中において影現の実報・寂光を仮立す。しかるに、この「三百由旬」は、実には三界を出ずることなし。
迹門にはただこれ始覚の十界互具を説いて、いまだ必ずしも本覚本有の十界互具を明かさず。故に、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(021)十法界事 | 正元元年(’59) | 38歳 |