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亡じ、観心の大教起これば本迹・爾前共に亡ず。これはこれ如来の説くところの聖教、浅きより深きに至って次第に迷いを転ずるなり。
しかれども、如来の説は一人のためにせず。この大道を説いて迷情除かずんば、生死出で難し。もし爾前の中に八教有りとは、頓は則ち華厳、漸は則ち三味、秘密と不定とは前四味に亘る。蔵は則ち阿含・方等に亘る。通はこれ方等・般若、円・別はこれ則ち前四味の中に鹿苑の説を除く。かくのごとく八機各々不同なれば、教説もまた異なり。四教の教主またこれ不同なれば、当教の機根、余仏を知らず。故に、解釈に云わく「各々仏独りその前に在すと見る」已上。
人天は五戒十善、二乗は四諦・十二、菩薩は六度にして三祇百劫あるいは動逾塵劫あるいは無量阿僧祇劫、円教の菩薩は「初発心の時、便ち正覚を成ず」。明らかに知んぬ、機根別なるが故に、説教もまた別なり。教え別なるが故に、行もまた別なり。行別なるが故に、得果も別なり。これ則ち各別の得益にして不同なり。しかるに、今、法華方便品に「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」と説きたもう。その時、八機ならびに悪趣の衆生、ことごとく皆同じく釈迦如来と成り、互いに五眼を具し、一界に十界を具し、十界に百界を具せり。
この時、爾前の諸経を思惟するに、諸経の諸仏は自界の二乗を、二乗もまた菩薩界を具せず。三界の人天のごときは、成仏の望み絶えて、二乗・菩薩の断惑即ちこれ自身の断惑なりと知らず。三乗・四乗の智慧は四悪趣を脱るるに似たりといえども、互いに界々を隔つ。しかも皆これ一体なり。昔の経は、二乗はただ自界の見思を断除すると思って、六界の見思を断ずることを知らず。菩薩もまたか
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(021)十法界事 | 正元元年(’59) | 38歳 |