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において作仏して、さらに異名有らん。この人は滅度の想いを生じて、涅槃に入るといえども、彼の土において、仏の智慧を求め、この経を聞くことを得ん」已上。この文、既に証果の羅漢、法華の座に来らずして無余涅槃に入り、方便土に生じて法華を説くを聞くと見えたり。もししからば、既に方便土に生じて、何ぞ見思を断ぜざらん。この故に、天台・妙楽も「彼の土に聞くことを得ん」と釈す。また爾前の菩薩において、「始め我が身を見、我が説くところを聞き、即ち皆信受して、如来の慧に入りき」と説く。故に知んぬ、爾前の諸の菩薩、三惑を断除して仏慧に入ることを。故に、解釈に云わく「初後の仏慧、円頓の義は斉し」已上。あるいは云わく「故に、始終を挙ぐるに、意は仏慧に在り」。
もし、これらの説相、経釈共に非義ならば、「正直に権を捨つ」の説、「ただ一大事をもって」の文、「妙法華経は、皆これ真実なり」の証誠、皆もって無益なり。「皆これ真実なり」の言は、あに一部八巻に亘るにあらずや。釈迦・多宝・十方分身の「舌相は梵天に至る」の神力、三世諸仏の誠諦不虚の証誠、空しく泡沫に同ぜん。
ただし、小乗の断常の二見に至っては、しばらく大乗に対して小乗をもって外道に同ず。小益無きにあらざるなり。また「七方便は、ならびに究竟の滅にあらず」の釈、あるいはまた「ただ心を観ずと言うのみならば、則ち理に称わず」とは、またこれ円実の大益に対して七方便の益を下して、「ならびに究竟の滅にあらず」「即ち理に称わず」と釈するなり。
第四重の難に云わく、法華本門の観心の意をもって一代聖教を按ずるに、菴羅果を取って掌中に捧ぐるがごとし。所以はいかん。迹門の大教起これば爾前の大教亡じ、本門の大教起これば迹門・爾前
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(021)十法界事 | 正元元年(’59) | 38歳 |