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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 十界の衆生、各互いに十界を具足す。合すれば百界なり。百界に各々十如を具すれば、千如なり。この千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば、三千なり。百界と顕れたる色相は、皆総じて仮の義なれば、仮諦の一なり。千如は、総じて空の義なれば、空諦の一なり。三千世間は、総じて法身の義なれば、中道の一なり。法門多しといえども、ただ三諦なり。この三諦を、三身如来とも三徳究竟とも申すなり。
 始めの三如是は、本覚の如来なり。終わりの七如是と一体にして無二無別なれば、「本末究竟等」とは申すなり。「本」と申すは仏性、「末」と申すは未顕の仏、九界の名なり。「究竟等」と申すは、妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我らと差別無きを、「究竟等」とも「平等大慧の法華経」とも申すなり。
 始めの三如是は、本覚の如来なり。本覚の如来を悟り出だし給える妙覚の仏なれば、我らは妙覚の父母なり。仏は我らが生むところの子なり。止の一に云わく「止は則ち仏の母、観は即ち仏の父なり」云々。譬えば、人十人あらんずるが、面々に蔵々に宝をつみ、我が蔵に宝のあることを知らず、かつえ死し、こごえ死す。あるいは一人、この中にかしこき人ありて、悟り出だすがごとし。九人は終に知らず。しかるに、あるいは教えられて食し、あるいはくくめられて食するがごとし。弘の一に「止観の二字は、正しく聞体を示す」と。聞かざる者は、「本末究竟等」もいたずらか。
 子なれども、親にまさること多し。重華はかたくなわしき父を敬って賢人の名を得たり。沛公は帝王と成って後も、その父を拝す。その敬われし父をば全く王といわず、敬いし子をば王と仰ぐがごと