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道の一門与力して、兵衛佐頼朝を調伏せんがために、叡山を氏寺と定め、山王を氏神とたのみしかども、安徳は西海に沈み、明雲は義仲に殺さる。一門皆一時にほろび畢わんぬ。第二度なり。今度は第三度にあたるなり。
日蓮がいさめを御用いなくて、真言の悪法をもって大蒙古を調伏せられば、日本国還って調伏せられなん。「還って本人に著きなん」と説けりと申すなり。しからば則ち、罰をもって利生を思うに、法華経にすぎたる仏になる大道はなかるべきなり。現世の祈禱は、兵衛佐殿、法華経を読誦する現証なり。
この道理を存ぜることは、父母と師匠との御恩なれば、父母はすでに過去し給い畢わんぬ。故道善御房は師匠にておわしまししかども、法華経の故に地頭におそれ給いて、心中には不便とおぼしつらめども、外にはかたきのようににくみ給いぬ。後にはすこし信じ給いたるようにきこえしかども、臨終にはいかにやおわしけん、おぼつかなし。地獄までは、よもおわせじ。また生死をはなるることはあるべしともおぼえず。中有にやただよいましますらんとなげかし。
貴辺は、地頭のいかりし時、義城房とともに清澄寺を出でておわせし人なれば、何となくとも、これを法華経の御奉公とおぼしめして、生死をはなれさせ給うべし。
この御本尊は、世尊説きおかせ給いて後、二千二百三十余年が間、一閻浮提の内にいまだひろめたる人候わず。漢土の天台、日本の伝教、ほぼしろしめして、いささかひろめさせ給わず。当時こそひろまらせ給うべき時にあたりて候え。経には上行・無辺行等こそ出でてひろめさせ給うべしと見えて
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(014)本尊問答抄 | 弘安元年(’78)9月 | 57歳 | 浄顕房 |