294ページ
ずして彼々の経々を法華経に並べて修行せん人と、また自執の経々を法華経に勝れたりといわん人と、法華経を法のごとく修行すとも法華経の行者を恥辱せん者と、これらの諸人を指しつめて、「その人は命終して、阿鼻獄に入らん」と定めさせ給いしなり。
このことは、ただ釈迦一仏の仰せなりとも、外道にあらずば疑うべきにてはあらねども、已今当の諸経の説に色をかえて重きことをあらわさんがために、宝浄世界の多宝如来は、自らはるばる来給いて証人とならせ給う。釈迦如来の先判たる大日経・阿弥陀経・念仏等を堅く執して後の法華経へ入らざらん人々は入阿鼻獄は一定なりと証明し、また阿弥陀仏等の十方の諸仏は、各々の国々を捨てて霊山・虚空会に詣で給い、宝樹下に坐して広長舌を出だし大梵天に付け給うこと、無量無辺の虹の虚空に立ちたらんがごとし。
心は、四十余年の中の観経・阿弥陀経・悲華経等に、法蔵比丘等の諸の菩薩、四十八願等を発して凡夫を九品の浄土へ来迎せんと説くことは、しばらく法華経已前のやすめ言なり。実には、彼々の経々の文のごとく十方西方への来迎はあるべからず。実とおもうことなかれ。釈迦仏の今説き給うがごとし。実には、釈迦・多宝・十方の諸仏、寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんがためなりと出だし給う広長舌なり。我らと釈迦仏とは同じ程の仏なり。釈迦仏は天月のごとし、我らは水中の影の月なり。釈迦仏の本土は実には娑婆世界なり。天月動き給わずば、我らもうつるべからず。この土に居住して法華経の行者を守護せんこと、臣下が主上を仰ぎ奉らんがごとく、父母の一子を愛するがごとくならんと出だし給う舌なり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(013)下山御消息 | 建治3年(’77)6月 | 56歳 | 下山光基 |