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しかれば、大悪人を用いる大科、正法の大善人を恥辱する大罪、二悪鼻を並べてこの国に出現せり。譬えば、修羅を恭敬し日天を射奉るがごとし。故に、前代未聞の大事この国に起こるなり。これまた先例なきにあらず。夏の桀王は竜逢が頭を刎ね、殷の紂王は比干が胸をさき、二世王は李斯を殺し、優陀延王は賓頭盧尊者を蔑如し、檀弥羅王は師子尊者の頸をきる。武王は慧遠法師と諍論し、憲宗王は白居易を遠流し、徽宗皇帝は法道三蔵の面に火印をさす。これらは皆、諫暁を用いざるのみならず、還って怨を成せし人々、現世には国を亡ぼし身を失い、後生には悪道に堕つ。これまた人をあなずり、讒言を納れて理を尽くさざりし故なり。
しかるに、去ぬる文永十一年二月に佐土国より召し返されて、同四月の八日に平金吾に対面してありし時、理不尽の御勘気の由、委細に申し含めぬ。また「恨むらくは、この国すでに他国に破れんことのあさましさよ」と歎き申せしかば、金吾が云わく「いずれの比か大蒙古は寄せ候べき」と問いしかば、「経文には分明に年月を指したることはなけれども、天の御気色を拝見し奉るに、もっての外にこの国を睨みさせ給うか。今年は一定寄せぬと覚う。もし寄するならば、一人も面を向かう者あるべからず。これまた天の責めなり。日蓮をばわどのばらが用いぬものなれば、力及ばず。あなかしこ、あなかしこ。真言師等に調伏行わせ給うべからず。もし行わするほどならば、いよいよ悪しかるべき」由、申し付けて、さて帰ってありしに、上下共に先のごとく用いざりげにある上、本より存知せり、「国恩を報ぜんがために三度までは諫暁すべし。用いずば、山林に身を隠さん」とおもいしなり。また上古の本文にも「三度のいさめ用いずば去れ」という。本文に任せて、しばらく山中に罷り
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(013)下山御消息 | 建治3年(’77)6月 | 56歳 | 下山光基 |