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慈覚大師の夢に日輪をいしと、弘法大師の大妄語に云わく「弘仁九年春、大疫をいのりしかば、夜中に大日輪出現せり」と云々。成劫より已来、住劫の第九の減、已上二十九劫が間に、日輪夜中に出ずということなし。
慈覚大師は夢に日輪をいるという。内典五千・七千、外典三千余巻に、日輪をいるとゆめにみるは吉夢ということ有りやいなや。修羅は帝釈をあだみて日天をいたてまつる。その矢かえりて我が眼にたつ。殷の紂王は日天を的にいて身を亡ぼす。日本の神武天皇の御時、度美長と五瀬命と合戦ありしに、命の手に矢たつ。命の云わく「我はこれ日天の子孫なり。日に向かい奉って弓をひくゆえに、日天のせめをこうぼれり」と云々。阿闍世王は仏に帰しまいらせて、内裏に返ってぎょしんなりしが、おどろいて諸臣に向かって云わく「日輪、天より地に落つとゆめにみる」。諸臣云わく「仏の御入滅か」云々。須跋陀羅がゆめ、またかくのごとし。
我が国は殊にいむべきゆめなり。神をば天照という。国をば日本という。また教主釈尊をば日種と申す。摩耶夫人、日をはらむとゆめにみて、もうけ給える太子なり。慈覚大師は大日如来を叡山に立てて釈迦仏をすて、真言の三部経をあがめて法華経の三部の敵となりしゆえに、この夢出現せり。
例せば、漢土の善導が、始めは密州の明勝といいし者に値って法華経をよみたりしが、後には道綽に値って法華経をすて観経に依って疏をつくり、法華経をば「千の中に一りも無し」、念仏をば「十は即ち十生じ、百は即ち百生ず」と定めて、この義を成ぜんがために阿弥陀仏の御前にして祈誓をなす、「仏意に叶うやいなや」。「毎夜、夢の中に常に一りの僧有って、来って指授す」と云々。乃至「一
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(010)報恩抄 | 建治2年(’76)7月21日 | 55歳 | 浄顕房・義浄房 |